ぶらり・ぶら~り
第88回 団塊おばさんの台湾珍道中10日間 Part1 (2011/11/28)
1日目 成田~桃園空港~台北駅~花連
たまたま知り合いのご主人が高雄へ転勤。
おばさん3人!彼女に逢いに行こうと話が決まり、暑い時期でしたが台湾へ出発。
台湾桃園国際空港16時50到着。台湾での両替は空港の方が、率が良いと聞き、荷物を待っている間に両替を済ませます。バスで台北駅へ向かいます。
バスで相席になったのは中国本土で仕事をしている青年。
休みには良く台湾へ遊びにくるとの事。
話の中で私が「チンプンカンプン」と言った時その言葉も中国語から来た物と教えてくれました。「聴不看不(テンプゥカンプゥ)」(見ても聴いても判らない)~ナアルホド~
帰国後ネットで調べるといろいろな説があるようです。興味のある方は調べられたら如何でしょうか?
その夜は花連(ファレン)へ、台北駅発20時10分発タロコ号で行く予定でした。
ところが切符売り場には行列が出来ています。早く到着して良かったと列に並びました。
直ぐ後ろに並んだ、ぶらりと同年くらいの女性が話しかけてくれました。中国語は全くという程、解らないぶらりですが、それでも何となく解り合えるものです。タロコ号に乗る事を伝えると多分無理だとの事でした。えっ!とにかく順番を待ちます。
やはり無理でした。予定より35分前出発して30分遅く花連へ着く電車の予約が出来ました。今夜の宿は日本人経営の民宿です。馨憶精緻民宿
オーナーは片桐さん、迎えをお願いしていたので携帯で連絡します。
花連駅からタクシーで宿まで来るように言われました。仕方がありません。
民宿に到着したのはもう午後11時を回っていました。それでも町は活気づいています。
台湾のパワーを感じます。宿に着くとロビー?にシニアの男性達がテーブルを囲み笑談中、和やかな雰囲気です。リタイアした土浦在住の男性がいました。台湾がすっかり気に入って数ヶ月滞在しておられるようでした。
私達はお茶をごちそうになり、2泊分の宿代と明日予約しているタロコ渓谷観光の料金を現金で前払いして部屋へ。ベッド3つの6人部屋を予約しました。
大きなベッドに一人、なんと贅沢な旅の始まりです。
2日目太魯閣観光ツアー
民宿主催のタロコ渓谷観光9時出発です。日本統治時代の歴史散策をしてタロコ渓谷を巡ります。大理石の渓谷です。
タロコ渓谷と はタロコ(東の花蓮)から中央山脈を超えて東勢(西の台中)に至る全長192Kmの東西横貫公路の一部で、特に世界的にも希な切り立った断崖や渓谷美がすばらしいタロコ~天祥間20Km区間を指します。この横貫公路は、もともと第五代台湾総督の佐久間左馬太が明治43年(1910年)、原住民討伐のための 「理蕃5ヵ年計画」に基づいて作った道路です。この道路をベースに、後に蒋介石が当時溢れていた退役軍人の働き場所として、また、中国とのイザ戦争といった時の物資補給路として1956-1960年の4年間、1日6000人を投入して作り直したものです。横貫公路脇には今でも随所に日本時代の古道(発電 所建設資材の搬送路や警察の警備道など)が見られ、当時の大変さが容易に想像されます(民宿HPより)
その前に朝食をとり、朝市に出かけます。朝食は近所の食堂、店頭でシュウマイと餃子を作っていました。奥が食堂でした。翌朝は電車内での朝食としてテイクアウトしました。
食後はツアー出発まで朝市見学です。市場は7時から開いているとの事、ありとあらゆる物を扱っていました。近所だったら買い物袋は一杯になっていたでしょう。
面白いのは布製のマスクでした。台湾では良く見かけるマスクです。私も花粉症の孫のお土産に買いました。そしてスモーカーの夫がタバコを吸う時の煙を避ける為、私にも一つ。
他に乾物や衣類を売っている店もありました。
宿に戻ると2人の若い女性もツアーご一緒、彼女達、台湾を気に入ったらしく何度目かのリピーターでした。総勢5人、片桐さんの案内で一日タロコツアーです。
先ずは七星潭、清水断崖と海岸山脈などの素晴らしい景色を楽しみました。
七星潭の海岸は広く美しい、しかし泳げない海岸なのです。
ここは地殻変動に寄り作り出された星月型の湾です。1936年に日本人によって「研海飛行場」が建設された時に埋め立てられ現在の地形となったそうです。昔ここに住んでいた住民が「七星潭人」と呼ばれていたため、この湾を七星潭と名付けられたとの事。上空に飛行機が飛来する度に片桐さんの説明も中断されました。
次は新城神社です。ここは日本統治時代に台湾の原住民タロコ族と日本軍が争って日本人が殺された場所で、鎮魂のために建てた神社です。その後日本撤退のあと蒋介石によって本殿は破壊されたそうです。その跡地に興味をもったスイス人の宣教師がこの地に教会を立てて神社跡を保護したのですが、鳥居や狛犬がそのまま残されています。和洋折衷の神社ですね。台湾の方は大まかな性質のようです。もちろん全員ではありませんが、知り合いがここで暮らして感じた感想です。好きですね-ぶらり向きの国民性です。
3番目は、岩盤をくりぬいたトンネルをくぐると現れる日本統治時代の台湾八景の一つ、清水断崖です。清水断崖一帯の渓谷は常緑広葉林に覆われており、「亜熱帯雨林楠榕林」にあたる植生が見られる。険しくそそり立つ清水山(2407m)の裾野がそのまま海に落ち込んでいる約20kmの珍しい地形。
断崖に貼りつくように造られた道路は、最も古いものでは1874年に羅大春が指揮して開いた北路が国立公園内で、最初に政府によって造られた対外連絡道路 になる。1927年に日本当局が自動車道路工事を着工、五年後の1932年に開通、「臨海道路」と呼ばれた。
(太魯閣国立公園HPより)
断崖見学後はいよいよ太魯閣です。15分位で入り口に到着、太魯閣は川に沿って行きますが、この川には大理石の成分が溶け出しているため強アルカリ性。そのため魚も住めない草も生えない死の川と、片桐さんの説明でした。
そこから更に10分程行くと砂?礑遊歩道(4.5km)があります。元「神秘歩道」 入り口は砂?礑橋から階段を下りたところ。大理石の岩壁に沿った小道。全行程2時間半のコースです。
砂卡礑渓の水は一年中透き通ったブルーで、水と石が織り成す景観が見事。残念ながら時間がなく30分程歩かせてもらいました。砂卡礑とは神秘の谷の意味。タイヤル族の言葉。砂卡礑歩道は日本統治時代に水力発電所建設資材運搬道路として作られたとの事。
次は燕子口、落石の危険があるという事でヘルメット着用です。また専用歩道を歩きました(地図参考)
九曲洞はこのコースの人気スポットなのですが、数ヶ月前に中国本土からの女性観光客が落石で死亡したとかで人も車も交通止めでした。今でも落石の危険があり、ちょっと車を止めてはくれたのですが、写真を撮る余裕はありませんでした。
次は車窓だけの筈だった慈母橋。
蒋介石の息子、蒋経国が母に送った橋とされる。元の橋は台風で壊れ、今の橋はその後の建造。「青蛙」の形をした大きな岩がある。岩の上の東屋を「青蛙の冠」と称している。
橋の右手を覗くと大理石がゴロゴロ、ちょっと拾ってという訳にはいきませんね(笑)
太魯閣奥地天祥に到着。太魯閣で最終地点です。
ここで昼食。土産店、便利商店(コンビニ)、食堂等が並んでいます。
この食堂のメニュー解り易い、一汁3采とでも訳しますか?500元(1,300円位)
私達は6名ですが、片桐さんが私達3人は年をとっているからそんなには食べないと思い1汁5采(4名用)を選んでくれました。それでも残すだろうと思っていたらしい。ところが私達ぺろっと完食です。しかもビールなんかも注文して女5人乾杯!台湾では昼からアルコールを飲む習慣は無いとか・・・それは失礼しました。
食後、文天祥公園では片桐さんの陽明学のお話を聞き、岳王亭では限られた時間内でホットする様なスポットと長い吊り橋を楽しみました。
中部東西横貫公路の長春トンネルの西口を抜けて南に曲がると、絶壁を背に建てられた中国風の祠が見えます。長春祠です。中部東西横貫公路建設工事中に亡くなった212名の人たちの霊を慰めるために1958年に建てられました長春祠を見学、夕方宿に到着
夜は夜市に出かけました。花連では、私達おばさんには朝市の方が面白かったようです。
夜市はその後、埔里、高雄でも経験しました。
3日目は新幹線で台中へ、レトロな町鹿港ルーガンヘ立寄ります。お楽しみに!
世界で一番人口の多い団塊の世代・1947年生まれの好奇心いっぱいの獅子座です。
忘れた頃の5人目で、比較的自由に育ちました。生まれは熊本・小中学校時代は下関ですから育ちは下関かも知れない。存在感のない子供でした。親からも同級生からも忘れられることが多かったので、気ままにテクテク歩いたりラジオ・テレビに興じたりしていました。今の生活にそんな育ち方が反映しているかも知れません。
運動神経の悪かった私は歩きというスポーツを見つけて20年すっかりアルチュウ(歩く中毒)になっています。社会性に乏しい割にはここ10年位は旅仲間と4~10人くらいで海外旅行を楽しんでいます。